「ウルトラマンT」感想メモ ~ファミリー路線だからこそ描かれた「自立」~

2023年7月14日金曜日

ウルトラマンT 感想

t f B! P L

 「セブンが残した『自立』という宿題」

1968年9月8日、一人のヒーローが地球を去った。
「誰よりも地球を愛した宇宙人」ウルトラセブンである。
地球人の青年が仲間を助けるために己を犠牲にした姿を目撃した彼は、この勇敢な行動に心を打たれ、地球人の姿となって地球で生きることを決意。地球を守る防衛組織であるウルトラ警備隊と接触、入隊すると、表の顔はウルトラ警備隊隊員、モロボシ・ダンとして、裏の顔は地球を守るヒーロー、ウルトラセブンとして、大宇宙に蔓延る多くの侵略者から狙われている地球を守るための戦いを開始した。

しかし、度重なる宇宙人や怪獣との死闘で彼の体は次第に消耗していき、ついにウルトラセブンとして戦うことは死を意味するほどに衰弱してしまう。
しかし彼はゴース星人が起こした「史上最大の侵略」からウルトラ警備隊の仲間と地球を救うため、ボロボロの体でゴース星人が送り込んだ怪獣、パンドンとの最後の戦いに挑む。
ダンの正体がウルトラセブンであることを知ったウルトラ警備隊の仲間たちは、何度傷ついても執念で立ち上がるセブンの姿を見て奮起。「地球は人類自身の手で守らなくてはならない」という決意の元、地球の、仲間のために彼が死ぬ気で戦っていることに応えるようにセブンを援護し、ついにセブンはパンドンを倒すのであった。

西の空に明けの明星が輝く頃、ひとつの光が宇宙へと飛んでいく。
それは幾多の宇宙人から地球を守り、M78星雲へと帰還するウルトラセブン最後の勇姿だった。
ウルトラ警備隊の面々は、ダンは死んで帰っていくのか、もしそうなら彼を殺したのはセブンに地球防衛を頼っていた自分たち地球人ではなかったのか、という後悔を感じながら、必ずダンは生きていて、いつか帰ってきてくれる、と信じそれを見届けるのであった。

こうして「ウルトラセブン」、そして所謂第1期ウルトラシリーズは幕を閉じた。
そこで描かれたのは、ヒーローという存在への依存が起こした悲劇、そして地球は自分たち人類自身の手で守り抜かなくてはならなかった、という「自立」への意志である。
振り返れば「ウルトラマン」の「小さな英雄」などでも描かれていたこの「自立」というテーマは、第1期ウルトラシリーズが後のシリーズに残した「宿題」と言うべきものだった。

後に続くウルトラシリーズが特撮ヒーロー作品である以上、そこには人間を超越したヒーローの活躍が不可欠である。それはすなわち地球の危機に人類だけでは立ち向かえず、ヒーローの存在が必ず求められるということだ。そこに人類の自立という構図はない。
「帰ってきたウルトラマン」第5話「二大怪獣 東京を襲撃」では、防衛軍の長官が「いざという時はウルトラマンが来てくれるさ」とウルトラマンの存在を完全にあてにした様子を見せて、現場で命をかけて戦う防衛チームMATから反発されるなど、かつてのウルトラ警備隊が直面した「宿題」はその後のシリーズにおいても影響を与えていることがわかる。
そしてこの「地球は人類自身の手で守り抜かなくてはならない」、「自立」という宿題に、1年間に渡るシリーズを通して回答を出そうとしたシリーズがある。
それが「ウルトラマンT(タロウ)」だ。

「ウルトラの母は太陽のように」

「ウルトラマンA」において、映像作品においてもウルトラヒーローたちは「ウルトラ兄弟」と設定され、さらに「父親」である「ウルトラの父」が登場するなど、ウルトラ戦士たちは「ウルトラファミリー」として、家族の絆を持つ存在として描かれるようになった。
それを受けた「ウルトラマンT」は、「ウルトラファミリー」路線をさらに強化した作品である。「父親」がいるなら「母親」もいるという発想から、ウルトラの命を生み出す女神として「ウルトラの母」というキャラクターを創造した。
そして主人公ヒーローである「ウルトラマンタロウ」は、ウルトラの父とウルトラの母の実子であると設定され、彼を加えたウルトラ兄弟は6人を数えることになり、「ウルトラ6兄弟」という、現在でも別格の括りとしてその名を輝かせるヒーロー・チームとして確立した。

ウルトラの父とウルトラの母の実子であり、「ウルトラファミリー」の頂点に立つタロウはその出自に恥じない華やかなヒーローだ。初代ウルトラマン譲りのスマートな体型、ウルトラセブンのデザインを踏襲した顔やプロテクター、実の父親であるウルトラの父から受け継いだ2本の角。帰ってきたウルトラマンの特色となったブレスレットも最初から持っている。円谷プロ創立10周年記念作品として、3作を数えた第二期ウルトラシリーズの決定版となる宿命を背負った「ウルトラマンT」という作品にふさわしい、ウルトラヒーローの集大成、決定版と言えるデザインだ。
必殺光線のストリウム光線が放たれる際、虹色の光学合成で全身が輝くその姿は、ウルトラマンタロウが持つ、光の子というイメージを強く印象づけるものだった。

ウルトラマンタロウとなった地球人・東光太郎は、身よりもなく単身世界を渡り歩いてボクサーの修行をしていた風来坊だ。その明るい性格は身よりもない孤独な境遇であることを感じさせず、入隊することになった防衛チーム・ZATでもムードメーカーの役割を担い、子供からも慕われる、まさに太陽のように明るい気質の持ち主である。
自分の力で世界を渡り歩いているということからも分かる通り、自分の人生を自分で切り拓くことを選ぶ独立心旺盛な性格の持ち主であった。

巨大クレーンを操って自ら怪獣に立ち向かうという無鉄砲な行動をして怪我をした光太郎の前に現れた、緑のおばさんからウルトラバッジと「やり始めたことは最後までやり遂げるのよ」という言葉を授かった彼は、防衛チームZATに入隊。
怪獣の攻撃で乗っていた戦闘機を撃墜された彼は、緑のおばさんの正体であったウルトラの母に救われ、ウルトラ5兄弟の見守る中ウルトラの命を授かり、ウルトラマンタロウとして転生する。
ここにウルトラマンタロウの戦いが始まった。

ここで脇道にそれるが、タロウ誕生の儀式の神秘性についても触れておきたい。
「ウルトラマンT」という作品は、ウルトラファミリーという「家族」として描かれたことでウルトラマンの神秘性が失われた、という見方がよく語られる。
しかし第1話「ウルトラの母は太陽のように」で描かれたタロウ誕生の儀式は、戦闘機を撃墜され死した東光太郎の体にウルトラの命が宿り、命の誕生を意味する赤ん坊の泣き声とともにタロウが誕生するという描写だった。そして地球ではほんの一瞬しか時間が経過しておらず、瞬時にタロウが出現するという描写がなされている。
ここではウルトラの母は単なる母親としての描写ではなく、ウルトラの命を生み出す宇宙の女神として描かれており、タロウの誕生という奇跡も、地球ではほんの一瞬の時間に過ぎないという、ウルトラの命の誕生の神秘性が存分に描かれている。命の誕生という奇跡を宇宙的スケールで描いたこの描写の神秘性は、ウルトラシリーズでも屈指のものだ。

「ウルトラファミリー」という、「家族」の存在に裏打ちされたヒーローであるウルトラマンタロウ。そのタロウに変身する東光太郎は、身よりはない身を悲観せず自分の道を自分の手で切り拓く青年としてシリーズ当初より描かれている。
このキャラクター造形に、制作陣が「家族」をテーマにするにあたって、そこからの「自立」をゴールにすることを志向し、子供の憧れとなる東光太郎を独立心旺盛な青年として設定した狙いが見える。
子どもたちに向けたメッセージとして、「家族」の絆は大切にしなければならない、しかし同時にいつまでもそこに依っていてはならない、いつかはそこから「自立」して自分の足で大地にしっかりと立たなくてはならない、ということを伝えるべく、「自立」をテーマにしたエピソードが続出していくのである。

「僕にも怪獣は退治できる!」

「自立」をテーマにしたエピソードとして忘れがたいのが、「ウルトラマンT」中盤のイベント編として展開された、「ウルトラマンA」において宿敵として登場した異次元人ヤプールの再登場、そして「帰ってきたウルトラマン」で一度はウルトラマンを手も足も出ないほどに追い詰めた宇宙大怪獣ベムスターの復活を描いた第29話「ベムスター復活!タロウ絶体絶命!」、第30話「逆襲!怪獣軍団」の前後編だ。
復活した異次元人ヤプールが強化再生させたベムスターの脅威の前に、ZATの宇宙ステーションNo.1は全滅、ZATはベムスター対策としてかつて帰ってきたウルトラマンがベムスターを倒したウルトラブレスレットと同じ威力のノコギリを使った真っ二つ作戦を実行するものの失敗、敗北する。
それを見ていた子どもたちの間には「ZATは弱い、今一番強いのはタロウで、困ったらすぐに来てくれるんだ」と人間の代表であるZATへの失望とタロウへの依存心が生まれてしまうのだった。
これを良しとしなかったのが、子どもたちに寺子屋で勉強を教えていた海野という青年である。
海野はタロウへの依存心を持った子どもたちがそのまま育てば、いつまでも誰かに頼り、失敗すれば誰かのせいにする、そんな自立できない人間になることを悟っていたのであろう。
海野は人間誰だって自分の力で一生懸命やれば何でも出来るという生き方を教えるために、自分の力で怪獣も倒すことを子どもたちに約束すると、爆弾を用意しベムスターに特攻する。ベムスターの体内に爆弾を投げ込んだ海野は間一髪現れたタロウに救われるのであった。

この展開には無理がある、いくらなんでも爆弾くらいで怪獣は倒せないだろう、とツッコミを入れてしまう人も多いだろう。しかしここで海野が戦っているのはベムスターではなく、タロウに依存してしまう子どもたちの弱い心なのだ。
言うなれば怪獣に自分の力で立ち向かう勇気を見せることそのものが海野の戦いであったとも言える。
ここでこの回の敵が復活したヤプールである意味が出てくる。ヤプールが「ウルトラマンA」最終回で狙ったのは、未来ある子どもたちの心にある「優しさ」を奪うことだった。そしてこの回のヤプールはベムスターの脅威によって子どもたちの心に強い者に依存する心を生み出し、自分で困難に立ち向かう強い心、「勇気」を奪っていたのである。
かつてウルトラマンエースが自らの人間としての生を犠牲にしてヤプールから子どもたちの心の優しさを守り抜いたように、海野は子どもたちの心から勇気を守ろうとしたのである。

タロウはベムスターの前に敗北した。しかし光太郎も、海野も、そしてZATも決して諦めていない。
ZATは新兵器を開発し、海野は特訓に励む。光太郎も怪我を押してリハビリを行い、各々がベムスターを倒すために全力を尽くした。そして翌日、再度現れたベムスターの前に、海野は投げ縄を使ってベムスターの頭部に乗り目を攻撃、両目を潰して戦意を喪失させることに成功する。そしてZATは濃縮エネルギー爆弾をベムスターに飲み込ませ腹の中で爆発させ、ついにベムスターを倒すことに成功するのであった。
そう、人間の英知と、最後まで諦めずやり抜く意志がベムスターを倒したのだ。

このエピソードにツッコミを入れることは容易いだろう。
海野の行動は特攻としか言いようがないし、投げ縄で巨大な怪獣の頭に飛び乗れるはずもない。
だがこのエピソードを通して描かれた、自分より強いもの、頼れるものに依存せず、最後まで自分の意志で困難に立ち向かわなくてはならない、「自立」というテーマは、この前後編を通して真摯に描かれており、「ウルトラマンT」というシリーズを読み解く上で非常に重要な要素となっている。
前後編の、しかも怪獣軍団が出現するというイベント編なら、ウルトラ兄弟がゲスト出演するのが「ウルトラマンT」の常だったはずだ。しかしここで制作陣はウルトラ兄弟と怪獣軍団のビッグバトルという超娯楽編の制作ではなく、人間が自分たちの力で強力なベムスターという脅威を乗り越え、子どもたちの心からヒーローへの依存心を断ち切るために戦うという展開の制作を選んだのである。それは見ている子供たちの心に何かを残そうとした、制作陣の真摯な姿勢の現れにほかならないだろう。

その後、「ウルトラマンT」というシリーズはウルトラ兄弟の宿敵として描かれたテンペラー星人と、ウルトラ兄弟が全員登場、歴代の勇者たちが顔を合わせるというシリーズ最大のイベント編を展開する。
ここでも、ウルトラ兄弟の末弟であるタロウが兄たちに頼ろうとすることや、逆に自分一人の力を過信して増長する展開が描かれ、タロウが本当の意味で兄たちから「自立」するまでが描かれた。怪獣軍団やウルトラ兄弟が出演するイベント編でこそ、シリーズの勘所である「自立」を描きたいという制作陣の思いが感じられる。

「僕はもうウルトラの力を頼りにしない」

そんな「自立」をテーマにしたシリーズの、文字通り集大成となったのが最終話「さらばタロウよ!ウルトラの母よ!」だ。東光太郎が日本に帰ってくる時に世話になった船の船長である白鳥船長が1年ぶりに日本に帰ってくることに端を発するこのエピソードで、東光太郎はウルトラの母の夢を見る。ウルトラの母は白鳥船長の船が怪獣サメクジラに襲われる光景を光太郎に見せると、人生が変わる大きな事件が起きることを予言するのであった。
かくしてその予言は的中し、なんとかサメクジラを発見したZATの眼の前で白鳥船長の船はサメクジラによって爆発。他の隊員の前でタロウに変身できなかった東光太郎は恩人を見殺しにすることになってしまう。その後市街地にバルキー星人とともに現れたサメクジラはなんなくタロウに倒されるが、白鳥船長の命が帰ってくることはなかった。光太郎が下宿していた白鳥家の少年、健一はZATや、肝心な時に現れなかったタロウを責めるのであった。

特筆すべきは、最終回に登場したサメクジラという怪獣が、決して最強の怪獣などではなかったことだ。サメクジラは弱くはない。しかしタロウと戦えば敵うべくもなく、バルキー星人と組んで2対1で戦ってもなおタロウなら倒すことが出来る。言うなれば普通の怪獣だ。あれだけ様々な怪獣・宇宙人が出現し、ゾフィーやタロウを倒したバードン、ウルトラ兄弟の宿敵と言われるテンペラー星人、ヤプールにベムスターといった後のシリーズにも度々登場するような強豪怪獣たちがひしめく「ウルトラマンT」という非常に華やかなシリーズの最後を飾る怪獣とは思えない。
しかしサメクジラは白鳥船長の死という取り返しのつかない悲劇を起こし、健一の心に消えない傷を刻み込んだ。そう、タロウは怪獣を倒すことは出来ても、事前に警告されていたとしても広い海に隠れたサメクジラを発見することは出来ず、悲劇を事前に防ぐことは出来なかった。そういった意味でタロウが勝つことが出来なかった怪獣と言ってもいい。
あれだけ華やかな出自と容姿で、ウルトラ6兄弟の末っ子で最強の戦士である、とまで言われたタロウが最後に戦うのは最強の怪獣ではなくて、タロウの力では取り返しのつかない悲劇である健一の父親、白鳥船長の死によって浮き彫りとなった健一のタロウや父親への依存心だったのだ。

タロウが父を助けてくれなかったことへの健一の怒りは、逆にタロウならいつもなんとかして怪獣を倒し奇跡を起こして人々を救うその姿の絶対性を信じて、依存していたからこそ現れたものだった。
健一の、タロウや父に依存してしまう心を断ち切り、最愛の父を失っても1人で強く生きていくための勇気を示すために、光太郎は健一が依存していたタロウの力を捨て、自らも自分自身の力だけで生きていくことを決断する。それはベムスターの襲来の際、子どもたちの心から依存心を断ち切るために自らベムスターに挑んだ海野とも重なるものだ。
第1話で1人で明るく生きてきた東光太郎の姿や、中盤の海野を通して描かれた自分の力だけで困難に立ち向かう勇気、自立心というテーマがあらためて最終回で描かれたことで、「ウルトラマンT」というシリーズは非常にバラエティに富んだエピソードを内包しながら、「自立」をテーマにした大きな流れを1年間に渡って完遂したシリーズとして完成したのである。

タロウに依存する健一に光太郎が問いかけた、「もしタロウがいなくなれば君は一体どうやって生きていくんだ?」という問いは、「ウルトラマンT」を見て、タロウの姿に憧れる子どもたち一人ひとりにも投げかけられたものなのだろう。
ヒーローに憧れ、勇気を学んで、ヒーローのように強く生きてくれるならそれでいい。だけど、ヒーローに憧れるあまり、もし辛いことがあってもヒーローがなんとかしてくれる、と依存していては自分の力で何もできなくなってしまう。ウルトラマンタロウが最後に戦ったのは、そんなヒーロー作品に憧れ、ヒーローの存在に依存してしまう、我々の心そのものだったのだろう。

健一に自分だけの力で生きていくことを示すために、光太郎もまた、自分の力ではない、母親に授かったものでしかない、ウルトラの力、ウルトラのバッジを捨てる。
かくして「ウルトラマンタロウ」はこの地球から消えた。バルキー星人はそれをしっかりと確認し再度出現、光太郎を亡き者にしようとしたが、光太郎の勇敢な行動の前に敗れる。そう、光太郎もまた、一生懸命やれば、ウルトラの力などなくても、人間は自分自身の力だけで困難に打ち勝てることを示したのである。
健一の心に自分の力で困難に立ち向かう勇気が戻ったことを見届けると、光太郎はZATを辞め、自分一人の力で強く生きていくために旅立ち、雑踏の中に消えていくのであった。

「そしてタロウがここにいる」

続く「ウルトラマンレオ」におけるウルトラ兄弟登場エピソードにもタロウは前年のヒーローでありながら姿を見せなかった。これは「ウルトラマンT」と「ウルトラマンレオ」のメインライターが同じだったことで保たれた設定の連続性の現れだろう(当時小学館の学年誌「小学3年生」で連載されていた内山まもる氏による漫画「ウルトラマンレオ」には東光太郎やタロウが登場しているが、ここでも光太郎が人間として生きていくことを選んだ結末が尊重されている)。
東光太郎は人間として強く生きている。「ウルトラマンレオ」において描かれた苛烈な星人の攻撃や円盤生物の襲撃の中でも強く生きていたに違いない。
「ウルトラマンレオ」においては、「ウルトラマンT」で描かれた「自立」「困難に立ち向かう勇気」というテーマがさらに推し進められ、ヒーローですら一生懸命努力し鍛錬しなければ星人に勝てない、というハードな構図でそのテーマを描いたが、これはいずれ他の記事にまとめたいと思う。

「ウルトラマンT」は華やかなシリーズだ。ウルトラ兄弟に変身する、所謂人間体のキャストが勢ぞろいするというウルトラシリーズ屈指のイベント編が展開され、ウルトラ兄弟が勢ぞろいして一緒に戦うという夢の光景も映像として具現化された。偉大なウルトラの父とウルトラの母の実子である最強の戦士、ウルトラマンタロウの華やかな活躍は強く子供たちの心に残り、タロウを初代ウルトラマン、セブンに次ぐ、ウルトラシリーズの代表とも言えるヒーローの1人にした。
そんな「ウルトラマンT」が強く我々の心に残ったのは、その華やかさももちろんだが、1年間という長丁場をバラエティ豊かな「現代のおとぎ話」を展開して視聴者を飽きさせることなく進行した上で、要所要所に「自立」をテーマにした話を入れ込み1年間のシリーズを一貫性あるものとして完成させたことにあるだろう。
ウルトラシリーズらしく個々のエピソードの面白さに特化したオムニバス性を保ちつつ、根底に「自立」をテーマにした話をいくつも織り込むことで、第1話から最終回までの一年間の物語に一貫性を持たせる形のシリーズ構成がなされているのが、「ウルトラマンT」の秀逸な点だと思う。

「ウルトラの父がいる」なら「ウルトラの母がいる」のもしかり。父と母、兄弟という「家族」を連想させるキャラクターが揃った時、「家族」をテーマに作品づくりが行われることになったのは当然とも言える発想だ。「ウルトラマンT」制作陣はそこで「家族」をテーマにするなら、いつかは「家族」からも「自立」しなくてはならない、というメッセージ性を主軸に据え、幾度も「自立」をテーマにした名エピソードを産んだ。それは「家族」をテーマにしたシリーズというお題に対する、制作陣の真摯な姿勢が産んだものにほかならない。未来ある子どもたちに送る物語として、「家族」からの「自立」を願ったその姿勢は、説教臭いと捉える向きもあるだろう。だが子どもたちの方を向いた物語を生み出す身として、本当に子どもたちのためになるようなメッセージ性を込めた制作陣の想いは、「ウルトラマンT」というシリーズを通して確かに子どもたちの心に伝わっていた、と思う。

「地球は人類自身の手で守り抜かなくてはならない」。
「ウルトラセブン」という作品が最後に残したメッセージだ。
第2期ウルトラシリーズの決定版として作られた「ウルトラマンT」は、それに「困難に自分で立ち向かう力を育み、自立して生きて欲しい」というメッセージを子どもたちに送ることで回答した。
それは地球を守る、ことや怪獣を倒す、なんてことだけではない。頼れる存在を失った時、自分の力で前に進むことを選ぶ勇気もまた、タロウが教えてくれた「勇気」である。
人生において普遍的なメッセージとして「地球は人類自身の手で守り抜かなくてはならない」を再解釈し、改めて子どもたちにその意味を伝えたシリーズとして、「ウルトラマンT」は今なお色褪せない輝きを放っている。

「ウルトラマンT」は円谷プロが運営する動画配信サービス「TSUBURAYA IMAGINATION」のスタンダードプランで有料見放題配信中だ。現代のおとぎ話を志向して作られたバラエティ豊かなエピソードの楽しさ、ウルトラファミリーが勢ぞろいする華やかさ、そして「自立」をテーマに一貫した物語の素晴らしさは、今も「ここにいる」。
ぜひあなたの目でもう一度、その物語を見届けてもらいたい。

光太郎さん、とうとうあなたも見つけましたね。
ウルトラのバッジの代わりに、あなたは生きる喜びを知ったのよ。

さようなら、タロウ…。

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